引かれ者の小唄

発するということは、つまり恥だと思う今日この頃

朝井リョウの死体蹴り

朝井リョウという作家がいる。どうやら現在、若手No. 1作家としてもてはやされている彼だが、僕はこの人について、少し書いてみたい。

 

彼といえば、デビュー作にして代表作の一つである「桐島、部活やめるってよ」が有名である。実を言うとその作品は僕の家にもあるので、まずはそれについて書いてみたい。

 

 

 

僕は桐島を一読して「小憎たらしいほどにうまい」という感想を抱いた。ある特定の人物だけではなく、複数の様々な階層にある人間を描いているあたりは、類作はあるにせよ文学としては一級品である。彼がドストエフスキーの「ポリフォニー構造」を意識していたのかどうかは定かではないが(多分意識してないだろうけど。恐らく自分がいろんな文体で書けることをアピールしたかったのだろう)複数の人間が自我を持って幸せになろうともがく様は、やはり普遍的な感動を呼ぶ。

 

なお映画版の桐島は、映画が原作を超えた稀有な例であるが、監督の吉田大八氏はバフチンの提唱したポリフォニー構造を理解して作品に落とし込んだように感じる。クライマックスシーンに吹奏楽部の合奏が流れたのは偶然ではないだろう。

 

 

 

朝井氏といえば、アンチが多いのも有名である。早稲田のダンスサークルを卒業して売れっ子作家になったのだから無理はない。朝井氏自身もむしろその状況を楽しんでいるように思える。そうして朝井氏がそんなアンチにむけた(らしい)「何者」という作品がある。言わずと知れた直木賞受賞作だ。

 

実を言うと僕は気味が悪くてこの本を数ページほどしか読めなかったのだが、頑張ってamazonやらなんやらであらすじを見てみると、ある一つの感想が湧き出てきた。

 

「なんだ、死体蹴りやんか」

 

「できる奴はなんでもできて、できない奴は何にもできないってだけの話だろ」というのは映画版にしかないセリフだが、朝井氏はニーチェの「弱いものは生きていけない」という問いに対して、意識的にしろ無意識的にしろこう回答している。「じゃあ、そのまま大人しく死んでくれ」と。

 

何者のクライマックスでは、ルサンチマンに燃えて僻みをtwitterの裏アカで垂れ流している弱者(まあ、僕のような人間だわな笑)を断罪するというシーンがあるらしい。別にそれを残酷だとは言わないし、彼自身もそこから巻き起こる効果を狙っているのだろう。朝井氏はとてもたくましい作家だ。現実というものをよく分かってらっしゃる。就活という剥き出しの生存競争をこういう風にして書けるのは、やはり若手No. 1の貫禄がある。やっぱすげぇや、朝井リョウ

 

 

 

少し話は変わるが、最近僕は彼のあるインタビューに目を留めた。その大意を適当に説明すれば「僕は両親に恵まれた。僕は両親に感謝している」とあった。

 

これは報われない人間からすれば、反吐が出そうになるほど嫌味な言葉だろう。しかし朝井氏は胸を張る。「僕は強いんです。あなたとは違います。どうですか?悔しいでしょう?でもいくら悔しがったって、それは生まれ持ったものの違いですから、どうしようもないんですよ。しかも僕はそれを戦略的に作品にして、一杯、いーっぱい、お金を稼いでるんですよー」

 

最後に一言。僕は多様性が大事だと思うので、こういう作家さんも1人2人ぐらいはいてもいいと思う。ただ、朝井リョウの死体蹴りが文学における公式となったとき、日本の現代文学は確実に終わるだろう。というか、ありのままの残酷さから、なんとかして抜け出そうと試みるのが、文学というものの基本スタンスであり、その意義であると僕は考えている。ありのままに胡座をかいているこの作家は、どうも好きになれない。直感は大体正しい。朝井氏にアンチが多いのにはやはり理由がある。